Hola Amigos !! るちゃ男(lucha‐O)です。5月15日、メキシコでは教師の日‐Dia De Maestro-でした。日本ではなじみがありませんが、この日は小中学校はもとより高校や大学、その他の学校で日ごろの感謝をこめて先生をお祝いする日です。もちろんルチャリブレでも例外ではなく現役、故人も含めて先生に感謝をします。今回はCMLLで感謝や親しみを込めてマエストロ、プロフェソール(先生)と呼ばれている(ネットで情報があった)選手を紹介します。今回もよろしくお願いします。
Dia del Maestro-先生の日・CMLL‐
Dia de Maestroは1918年に始まりました。当初はメキシコの教育改革を進める運動として設定されました。その後、教育者や教師への感謝と敬意を表す日として定着しました。この日は学校や教育機関で様々な行事や式典が開催されることが一般的です。また、生徒たちはDia de maestroに感謝の気持ちを示すために手紙やメッセージカード、花束などの贈り物を教師に贈ることがあります。地域によってはこの日は学校が休みになるところもあります。
ロランド・ベラ‐Rolando Vera-
ロランド・ベラ (Rolando Vera) ロランド・ベラは、1915年にメキシコのヌエボレオン州モンテレイで生まれ、ルチャリブレ界でその名を大いに知られる存在となった。彼は最も権威のあるNWAミドル級チャンピオンとして、4年間その座に君臨。この間に、ドイツ、フランス、キューバ、イギリス、アメリカなど、世界各国で活躍。彼の多彩な動きと卓越した技術は、多くのファンの心を掴んだ。さらに、彼は後にブルー・デーモンの指導者としても名を刻み、ルチャリブレ界に計り知れない影響を与えた。ブルー・デーモン自身が伝説のレスラーとなった背景には、ロランド・ベラから学んだ技術と精神があったと言われている。‐wikipedia-


ラウル・ロメロ (Raúl Romero)
ラウル・ロメロは1909年にメキシコのドゥランゴで生まれ、ルチャリブレ界で伝説的な存在となった。彼はミドル級とライトヘビー級で最高のルチャドールと称され、観客を魅了する試合を次々と繰り広げた。特に1937年10月24日、ルチャリブレ対ボクシングの異種格闘技戦では、ボクサーのメルセド・ゴメス・ジュニアと対戦し、華麗な勝利を収めた。この試合は彼のルチャドールとしてのデビュー戦でもあり、彼のキャリアの始まりを飾る重要な試合となった。
また、ラウルの試合はエキサイティングでエレガントであり、そのパフォーマンスはメキシコ国内外で大きな影響を与えた。メキシコを巡業していた柔道家、木村政彦の目に留まったことをきっかけに、ラウルは日本へ来日。記録上、彼が日本に最初に来日したメキシコ人ルチャドールとして知られている。さらに彼はディアブロベラスコやエル・サントといった後世に名を馳せるルチャドールを育て、ルチャリブレ界に多大な貢献をした。

クワテモク・ディアブロ・ベラスコ‐Cuauhtémoc Diablo Velasco-
本名はクアフテモック・ベラスコ・バルガス。彼の指導の厳しさと情熱から「ディアブロ(悪魔)」という異名がついたと言われている。選手としては「テルモ・ベラスコ」として1937年にデビューを果たしたものの、エストレージャ(スター選手)となるには体格が足りなかった。しかし、その優れたレスリングスキルと試合運びの巧妙さにより、プロモーターや同業選手たちの信頼を得る存在となった。
1952年にはアレナコリセオ・デ・グアダラハラのコーチとしての道を歩み始め、長年にわたり若手選手の育成に尽力した。彼の指導を受けた選手たちはやがて団体の中心選手として活躍し、ベラスコの名前はメキシコ国内で広く知られるようになる。1997年にコーチ業を引退したが、1999年に亡くなるまでルチャリブレ界に情熱を注ぎ続けた。記事元:WIKIPEDIA
主な生徒:アトランティコ、アトランティス、アポロ・ダンティス、アルカンヘル・デ・ラ・ムエルテ、アルフォンソ・ダンティス、アンヘル・ブランコ、アンヘル・ブランコJr、ウニベルソ2000、ウルティモドラゴン・シート、エル・サタニコ、エル・ソリタリオ、佐山聡、ソラール1号、ヒロ・マツダ、ペロ・アグアヨ、ミルマスカラス、ラヨ・デ・ハリスコJr
リンゴ・メンドーサ‐Ringo Mendoza-
リンゴ・メンドーサは、メキシコの伝説的なルチャドーラであり、彼の輝かしいキャリアはルチャリブレの歴史に欠かせない。1968年、グアダラハラでディアブロ・ベラスコの厳格な指導を受けてデビューを果たす。兄弟のカチョロ・メンドーサやインディオ・メンドーサと共に、3兄弟でルチャリブレ界に名を刻んだ。
リンゴは数々のタイトルを獲得し、特にNWA世界ミドル級王座を5度、国内ミドル級王座を2度制覇した。さらにCMLL世界ミドル級王座、オクシデンテミドル級王座、UWA世界ジュニア・ライトヘビー級など、多岐にわたる栄冠を手にした。また、タッグ戦やトリオ戦でも成功を収め、弟のカチョロとメキシコ代表タッグ王座を獲得し、キッスやラヨ・デ・ハリスコJrとのトリオではメキシコ代表トリオ王座を手にした。
1990年代初頭からはレスリングコーチとして活動を始め、CMLLで若手選手の育成に力を注いだ。
彼の指導は多くのルチャドールに影響を与え、後進の選手たちがリングで輝く姿を見ることが彼の誇りであった。2011年に引退。彼の功績は今もなおルチャリブレ界に深く刻まれている。
記事WIKIPEDIA


グラン・コチィス‐Gran・Cochisse-
グラン・コチースは、メキシコのルチャリブレ界で伝説的な存在として知られるルチャドール。彼はディアブロ・ベラスコの指導を受け、わずか14歳という若さで1966年10月2日にプロデビューを果たす。
リングネームの「グラン・コチィス」は、アパッチ族の酋長であるコチィスにちなんで名付けられ、「エル・インディオ・ブラボー(勇敢なインディアン)」の愛称で親しまれた。
彼はUWA世界ジュニアヘビー級王座を1度、NWA世界ミドル級王座を3度獲得するなど、数々の栄冠を手にした。その試合スタイルはエネルギッシュで観客を魅了し、試合会場を熱狂の渦に巻き込んだ。
さらに1990年代後半からは、グアダラハラのアレナコリセオでコーチとして活躍し、多くの若手選手を育て上げた。彼の指導の下で育った選手たちは、ルチャリブレ界で中心的な存在となり、彼の影響力は現在まで続いている。記事元:WIKIPEDIA


エル・サタニコ‐El・Satánico-
1973年6月17日にデビューを果たしたエル・サタニコは、ルチャリブレ界で伝説的なルードとして知られるルチャドール。当時の人気映画『007』の悪役「エル・サタニコ・ドクター・ノー」にちなんだ名前でリングに上がり、その後「エル・サタニコ」というシンプルなリングネームに変更。彼はマスクマンとしてデビューするが、翌年の1974年にエル・ベンガドールとのマスカラ戦に敗れ、素顔での活動を始めた。
1980年代にはルードユニット「ロス・インフェルナレス」の主要メンバーとして活躍し、チームの魅力と団結力を象徴する存在となった。その後もグループの重要なメンバーとして活動を続け、ルチャリブレ界におけるルードとしての立ち位置を確固たるものにした。
2009年、彼はCMLLのルチャリブレスクールで若手選手の育成に力を注ぐため、第一線から退くことを発表。その後、活動の拠点をメキシコシティーからグアダラハラに移し、試合をこなすとともに、才能ある選手を育てるコーチとしての役割を果たしている。その影響力は若手選手の成功を通じてルチャリブレ界全体に広がり続けている。 記事元:WIKIPEDIA
主な生徒:ラ・アマポーラ、ニエブラ・ロハ、ドラゴンロホJr、ゲレーロマヤJr、マルセラ、オクムラ、エル・サグラド、シルエタ、ソベラノJr、マスカラ・ドラダ、ティタン


アルカンヘル・デ・ラ・ムエルテ‐Arkángel De La Muerte-
1988年、スペイン貴族エル・シドにインスパイアされ、マスクマンとして「ミスター・シド」のリングネームでプロレスデビューを果たした。彼は同年、パンテーラⅡとタッグを組み、ナウカルパンタッグ王座を獲得。しかし、タッグチームはやがて抗争へと発展し、最終的にマスカラ戦で敗北。これにより彼はマスクを外し、素顔で活動を続けることとなった。
1991年、彼はリングネームを「アルカンヘル・デ・ラ・ムエルテ(死の大天使)」に改名し、その名にふさわしい威厳と迫力を持ったルチャドールとして名を馳せた。現役選手としてリングに立ち続けながらも、彼の情熱は若手選手の育成にも向けられた。
2000年代半ばからはCMLLのルチャリブレスクールのコーチとして活躍。彼は試合経験を重視し、大会の第2・第3試合で若手選手たちと数多く戦い、彼らに実践の機会を提供した。その中でも特にミスティコの育成に貢献したことで知られ、ルチャリブレの未来を担う多くの才能を世に送り出した。
記事元:WIKIPEDIA

