HOLA!Amigos!るちゃ男です。メキシコが誇るプロレス「ルチャリブレ」の歴史には、数々の伝説的なレスラーが名を連ねますが、その中でもひときわ異彩を放つのが「フィッシュマン」です。鮮やかな緑のマスクをまとい、「緑の毒」の異名で恐れられた彼は、ルードとしてリングに立ちながらも、なぜかファンの心を掴んで離しませんでした。今回はそのフィッシュマンの波乱に満ちた人生を紹介します。記事元:El Mil Iris Jarocho
幼少期とルチャリブレへの第一歩
フィッシュマンは1951年1月6日、メキシコ北部コアウイラ州トレオンで生まれました。9歳の頃、母親や叔母に連れられて見に行ったルチャリブレの試合で、彼の運命は決まります。
特にルードのブルー・デーモンやブラック・シャドーに憧れを抱き、後に自らもリングでその影響を色濃く反映させることになります。
女子プロレスラーのロラ・ゴンサレスとの結婚(後に離婚)など、私生活でも話題を振りまいた彼ですが、その才能はリングでこそ輝きました。
予想外のデビューと「緑の毒」の誕生
フィッシュマンのリングデビューは、まさに偶然の産物でした。フアレスの地元興行で、予定されていたレスラーが現れず、急遽代役としてリングに上がったのです。
スポーツ用の短パンと借り物のブーツという即席の姿で「ゴリアト・レイジェス」の名で試合に挑むも敗北。その後「エル・ティタン」に改名し、金と黒のエイ(マンタレイ)をモチーフにしたマスクをデザインします。しかし、メキシコの老舗団体CMLL(当時EMLL)に加入後、エル・ソリタリオのマスクと色が被るため、エメラルドグリーンと黄色に変更。これがきっかけで「緑の毒(エル・ベネノ・ベルデ)」という異名が生まれ、彼のトレードマークとなりました。
フィッシュマン:リングを制した若き魚人のマスク狩り伝説
フィッシュマンのキャリアは、デビュー戦でエル・ソリタリオがアンヘル・ブランコをマスク剥ぎした夜に本格的に始動。初代エル・メディコ、エル・モナルカ、コンクといった強豪のマスクを次々と奪い、EMLLでの地位を確立しました。
1973年には師匠エル・マルケスからナショナル・ウェルター級王座を獲得し、1974年にはデュランゴ・キッドのマスクを剥ぎ。1976年の団体アニベルサリオ大会ではファラオンを破り、観客を沸かせました。
そして1977年、憧れのブルー・デーモンを倒してNWAウェルター級王者に輝き、同年のマスカラvsマスカラvsマスカラではサングレ・チカナとエル・コバルデのマスクを奪う圧倒的な勝利を収めました。

UWA時代と国際舞台への飛躍
1978年、フィッシュマンはEMLLを離れ、新天地UWAへ移籍。ここでも彼の勢いは止まりません。1984年にはトーナメント決勝でビジャノ3号を下し、UWA世界セミヘビー級王座を4度獲得。1988年にはティフアナでレイ・ミステリオのマスクを奪うなど、数々の名勝負を繰り広げました。

さらに日本、アメリカ、中央アメリカへと活動の場を広げ、国際的なルチャドールとしての名声を確立。1998~1999年にはAAAにも参戦し、1999年にシンタ・デ・オロのマスクを最後に奪うなど、晩年までその実力を示しました。
引退とリングからの別れ
しかし、輝かしいキャリアにも終わりが訪れます。1999年のリレー戦や翌年の4コーナーマッチ(グローバル・レスリング・オールスターズ主催)は興行的に失敗し、プロモーターから十分な報酬が支払われない事態に。この試合が事実上の引退試合となり、その後は特別試合に数度出場するのみでした。そして2017年4月8日、66歳の若さで急性心筋梗塞によりこの世を去ります。フィッシュマンの死は、ルチャリブレ界に大きな衝撃を与えました。



フィッシュマンが残した遺産
フィッシュマンは単なるレスラーではありません。彼はルードでありながらファンを魅了し、メキシコのルチャリブレ文化に深い足跡を残した伝説です。リングでの勇姿、マスクに込めた個性、そして数々の名勝負は、今なおファンの心に生き続けています。あなたはどのフィッシュマンの試合が印象に残っていますか?