1933年、メキシコ・ルチャリブレの誕生
1933年9月21日、木曜日の朝。 メキシコシティの街角には、パンとコーヒーの香りが漂い、ラジオからはXETR局の音楽が流れていた。 陽気な旋律を奏でていたのは、のちに「クリクリ」として国民的存在となる音楽家、フランシスコ・ガビロン・ド・ソレール。 人々はいつものように朝を迎えたが、この日は、やがてメキシコ文化の一部となる“何か”が静かに産声を上げようとしていた。
同じ頃、映画館ではメキシコ初のホラー映画『ラ・ジョローナ』が上映され、観客を震え上がらせていた。 だが、真に歴史を動かしたのは、夜に訪れるもうひとつの“メキシコ初”だった。
新聞各紙は、メキシコシティで始まる新たな格闘イベントの開幕を報じていた。 それは単なる見世物ではなく、正式な団体による定期開催の予告。 会場は、当時新たに名付けられた「アレナ・メヒコ」。 そしてこの日こそが、メキシコ・ルチャリブレの記念すべき誕生日となる。

夜8時15分
サルバドール・ルテロ・ゴンサレス氏が、自身の夢と信念を込めたプロジェクトにゴーサインを出す。 その名も「メキシコ・ルチャリブレ会社(EMLL)」。 この団体はのちに「CMLL(ルチャ・リブレ世界評議会)」へと発展し、メキシコ格闘文化の礎を築いていく。
旗揚げ戦は満員御礼。 観客の熱気はリングを包み、試合のたびに歓声がアレナ・メヒコの天井を揺らした。 その夜のメインイベントでは、ソノラ州出身のジャッキー・ジョーがアイルランド人レスラーを破り、勝利の腕を高々と掲げた。
この瞬間、観客はただの“観客”ではなく、“ルチャリブレのファン”へと変わったのだ。

ルテロ氏の構想は、単なる興行にとどまらなかった。 彼は早くも次の一手を打つ。 旗揚げから1か月も経たないうちに、ゴンサロ・アベンダーニョ教授を責任者として「ルチャリブレ養成学校」を設立。 ここから数多くの名レスラーが育ち、やがてメキシコ全土にルチャリブレの魂を広めていくことになる。
こうして、1933年のあの木曜日に始まった物語は、90年の時を経て今も続いている。 ルチャリブレは、単なる格闘技ではない。 それはメキシコの誇りであり、情熱であり、文化そのものなのだ。

CMLL――情熱と栄光のリングに、今もなお、魂が燃えている。


