【CMLL】メキシコと日本の架け橋、奥村選手ー「大阪の台風」が語る不屈のプロレス人生(1)

Hola Amigos!るちゃ男です。CMLL公式ポッドキャスト『Esto es Lucha』に、今や日本とメキシコの文化・スポーツの懸け橋として欠かせない存在となった「大阪の台風」こと奥村選手が登場しました。長年メキシコを拠点に活動する奥村選手が語る、自身のルーツやプロレスへの熱き想いが面白くとても興味深い内容でしたので今回を含め数回にわたりインタビューを紹介したいと思います。今回もよろしくお願いします。

文章:るちゃ男yAI記者GEMINIyChatGPT

ESTO ES LUCHA: EL PODCAST OFICIAL DEL CMLL – OKUMURA
動画元:VideosOficialesCMLL

日墨をつなぐ男・奥村茂雄‐少年が初めて見たプロレス‐

アレクシス: 皆さん、こんにちは!CMLL公式ポッドキャスト『Esto es Lucha』へようこそ 。司会のアレクシス・サラサールです。毎週この番組では、偉大なアイドルたちが伝説となるまでの軌跡を皆さんと共に辿っていきます。

さて、本日お迎えするのは、リングの上で活躍するだけでなく、日本とメキシコの文化、そしてもちろんスポーツの架け橋となっているルチャドールです 。 「大阪の台風」こと、奥村選手です!奥村さん、ご機嫌いかがですか?

奥村: 元気です、ありがとうございます。お招きいただき感謝しています。ずっと出演したいと話していましたが、ようやくこの番組に来ることができました。

アレクシス: ついにですね! 奥村さん、メキシコでの生活も長くなりましたが、ご自身では日本人だと感じますか?それともメキシコ人だと感じますか?

奥村: そうですね、こちらの生活にはもう慣れましたし、すべてに馴染んでいます 。ですが、考え方は今でも日本人のままですね。

アレクシス: 奥村さんのルーツについて伺っていきましょう。この物語を始めるにあたって、まずはこの質問をさせてください。「Okumura towa dare desuka?(奥村とは誰ですか?)」

厳格な家庭で育った少年が、熱に浮かされて見た「夢」

奥村: 本名は奥村茂雄です。大阪府池田市で生まれました 。もともとは野球ファンでした。他のインタビューでもお話ししたことがありますが、実は両親がプロレス番組を見るのを許してくれなかったんです 。

ですが、私が8歳か9歳の小学生だった当時、プロレスは大流行していました。金曜日の夜8時から9時は新日本プロレスの番組が放送されていたんです 。当時は月曜日から土曜日まで学校がありました(今は土曜日は休みですが) 。土曜日の朝になると、クラスメイトはみんなプロレスの話ばかりしていました

私は番組を見せてもらえなかったので、話の内容がさっぱり分かりませんでした。でも、仲間外れになるのが恥ずかしくて、実際には試合を一度も見たことがないのに、友達と一緒にプロレスごっこをして遊んだりしていました。

なので私は頻繁に本屋へ行っては、プロレスの本や雑誌をチェックしていました。アントニオ猪木、藤波辰爾、タイガーマスク……名前と写真だけで、必死に想像を膨らませていました。しかし番組で試合を見たことはありませんでした。

ところがある日、私は熱を出して寝込んでしまいました。母が医者に連れて行ってくれて、夜の8時半ごろに帰宅したのですが、その日、母が初めてプロレス番組をリアルタイムで見ることを許してくれたんです 。そして翌日の土曜日の朝、まだ体調の悪い私に母は私にこう言いました。「まだ治ってないんだから、月曜日まで休んでから学校に行きなさい」って。

でも、私はプロレスの話をクラスメイトとしたくて学校に行きたくて仕方がありませんでした。で、学校に行きクラスメイトに「おい、昨日のアントニオ猪木見たか?」ゴホッゴホッと話しかけて友達から「(風邪がうつるから)あっちへ行け、近寄るな」なんて言われたりもしました。でも、ようやくプロレスの話に加わる事ができたんです。その時は本当にうれしかったですね。

その時から母がプロレス番組を見るのを許してくれるようになり、毎週欠かさず見る大ファンになりました。 とはいえ、自分がプロのレスラーになるとは当時は想像もしていませんでした。ただ、私には2つの夢があったんです。

二つの夢、そして一つの選択

奥村:野球選手か、プロレスラーになりたいと思っていました。結局、肘を痛めてしまったのでピッチャーとして野球を続けることはできませんでしたが、プロレスラーになることはでき、おかげさまで今日まで続けてこられました。今でも、それは神様に感謝をしています。

アレクシス: 野球について伺おうと思っていたところでした。日本では多くの子供たちが野球をプレーしていますよね?

奥村: その通りです。今でも野球はおそらく一番人気のスポーツだと思います。 プロレスも第二次世界大戦後から現在に至るまで、男女問わず多くのファンがいますし、 相撲は日本の国技です。今はサッカーなど他にもたくさんのスポーツがありますが、野球は常に最も多くのファンを抱えています。

アレクシス: 野球はまさに「スポーツの王様」として知られていますからね。 さて、日本では(修行などが)非常に厳格に行われますが、どのようにしてプロレスのトレーニングを始めることになったのですか? 初めてプロレスを見るのと、実際にプロレスの門を叩いて練習を始めると決心するのとでは、大きな違いがあると思うのですが。

道場まで片道1時間40分

奥村:私の時代には、プロレスの学校(道場)というものはほとんどありませんでした。 私はもう長く日本を離れているので今の状況は変わっているかもしれませんが、今はプロレスラーになるために多くの道があり、プロレス団体も各地方に小さな団体がいくつも存在することを知っています。しかし、私の時代には何もなかったんです。

そんな中、私の最初の師匠となったのは、1979年から81年にかけて(メキシコの)クワトロ・カミノスで活動していた栗栖正伸さんでした。 私の師匠は大阪府内にジムを構えておられましたが、私の住んでいた大阪北部の池田市からは、端から端という感じでとても遠く、1時間40分ほどかかりました。 ですが、そこには本物のプロレスのリングがあったんです。私の時代、プロレスのリングに足を踏み入れるということは非常に難しいことでした。

El Toreo de Cuatro Caminos(エル・トレオ・デ・クアトロ・カミノス)
クアトロ・カミノスは、かつてメキシコシティ北部にあったルチャリブレの伝説的会場です。もともとは闘牛場で、観客とリングの距離が近く、試合の緊張感が直接伝わる場所でした。
ここではマスク戦や髪切り戦など、レスラーの人生を左右する重要な試合が数多く行われました。そのため、選手は常に本気の覚悟を求められ、試合には他の会場にはない切迫感がありました。観客も非常に熱く、時に荒々しく、レスラーの実力と覚悟がはっきりと試される会場でした。197080年代には日本人レスラーも多くリングにたち、日本とメキシコを結ぶ重要な会場でもありました。2013年に閉場・解体されましたが、クアトロ・カミノスは今も「最も過酷なルチャリブレの会場」として語り継がれています。
クアトロ・カミノスで活躍した選手
フィッシュマン、ペロ・アグアヨ、ロス・ビジャノス、ロス・ブラソス、カネック、そして栗栖正伸
YouTube:エル・トレオ デ クアトロ カミノス動画元:Meximaniacos

奥村:リングを間近で見たい、練習したいという一心で、私はそこへ通い始めました。 ジムは午後4時から夜10時まで開いていました。 私は夕方5時ごろに到着し、夜10時まで週に5日練習しました。 当時はまだ単なる夢に過ぎませんでしたが、その頃一緒に練習していた仲間の多くが、後にプロレスラーになりました。

アレクシス: 師匠の栗栖正伸さんは、かつてメキシコの「エル・トレオ」でフィッシュマンやアニバルらとマスカラ戦やカベジェラ戦を行い、長くこのメキシコで活躍されていましたね 。

あなたが仰った「リングに上がる資格は自ら勝ち取るもの初日からいきなり上がれるものではない」という言葉は、非常に重いものです 。世界でも類を見ないほど厳しいとされる日本のプロレス界において、その第一歩となる初期のトレーニングはどのようなものだったのでしょうか?

奥村:私の師匠は非常にシンプルにこう言いました。「プロレスラーになりたいか? トレーニングはお前の仕事の一部だ1日や2日なら誰でもできる。だが、怪我をしたり、病気になったり、気分が乗らなかったり、雪や雨が降る日もあるだろう日本は雪も多いし、冬は寒く、夏は暑いどんな状況でもトレーニングを続けなければならない もし練習をしたくないと思う日が来たら、その時はもう引退しろ」と。この言葉はプロレスラーとして31年のキャリアを歩んできた今でも、常に心の中にあります 。

れまで大きな怪我もたくさん経験しましたし、メキシコに来てからも多くの怪我を負いました 。ですが、常に栗栖先生の「練習したくないなら辞めろ」という言葉がありました。長年の消耗で体は以前と同じではありませんが 、以前は月曜から土曜まで常に練習していました。

今は長年の試合で体にも休息が必要なので、月曜から金曜まで練習し、土日は試合や他のことに充てています 。 午前中に練習するのが私のリズムで、本当は土曜日も練習したいのですが、今は休むように努めています。

アレクシス: なるほど。その「絶えず鍛え続ける」という先生の哲学を、あなたは忠実に実践されているわけですね。あなたは実質的に、アレナ・メヒコにあるジムを一番に開けるような存在です 。ジムの電話番号は、もはや奥村さんの携帯の延長のようなと選手間では有名です。

奥村さんの携帯がつながらなければ、アレナ・メヒコのジムに電話すればいい。あなたがトレーニングしていることは分かっていますからね。

家族の反対と、それでも続けた道

アレックス:さて、先ほどご家族がプロレスを見るのを許してくれなかったという話がありましたが、その後、あなたは片道1時間半以上かけて練習に通うという犠牲を払ってプロレスの道に進みました 。 あなたがプロレスに専念しようとしたり、学ぼうとしていることについて、ご両親はどう思われていたのですか?

奥村: 両親は「プロレスラーになんてなれるわけがない、そんなに甘いものじゃない」と言っていました。「アマレスや他の競技でチャンピオンになったわけでも全国レベルの実績があるわけでもないお前は普通の人なんだから体格だってそんなに大きくないし他のことをしなさい」と 。ただ、今思うと好きだったんです。プロレスの練習やその環境が夢の様でした。私はジムに通い毎日、毎日練習を続けました。

師匠の教えは非常に分かり易く基礎的なものでした。ジムに着くと、スクワット、腕立て伏せ、腹筋、そして首です。レスラーは常に首を鍛え続けなければならないと教わりました。それからストレッチをして、ようやくウェイトトレーニング、そしてレスリングの練習です。

関節技などの練習をして、夜の10時までそんなリズムで続け、家に帰るのは夜中の11時40分か45分ごろでした。練習後に仲間と話し込んでしまい、「おっと、もう遅い。帰らなきゃ」となると、帰宅が深夜0時を過ぎることもありましたが、それが楽しく好きで続けていました。その執念が、私をプロの道へと導いてくれたのだと思います。

栗栖選手は、1970〜80年代に活躍した日本のプロレスラーで、特にメキシコ遠征での経験によって知られる存在です。派手な必殺技やスター性よりも、力強さと粘り強さ、そして相手から逃げない姿勢を武器にしていました。
メキシコでは、観客も試合内容も非常に厳しい会場で数多くの試合を経験し、簡単には認められない環境の中で実力を磨きました。そのため、華やかなルチャドールというよりも、荒々しく実戦的なスタイルのレスラーとして評価されています。

栗栖選手は、日本では目立つ存在ではありませんでしたが、海外の修羅場をくぐり抜けた数少ない日本人レスラーの一人として、今も関係者やファンの間で語られています。

少年時代からリングへ

ここまで読んでいただくと分かるように、このインタビューで描かれているのは、いきなり完成されたレスラーの姿ではありません。プロレスに出会った少年が、遠回りをしながらも少しずつ夢に近づいていく、その途中の時間です。野球少年だった頃の話や、家族とのやりとり、師匠との出会い、そしてレスラーとしてのトレーニングの始まり。どれも派手ではありませんが、後のオクムラ選手につながる大切なエピソードばかりです。

だからこそ、どこか人間くさく、読んでいて距離の近さを感じさせてくれます。リングの上で見せる強さの裏側には、こうした積み重ねがあったのだと、自然に伝わってきます。

次回はいよいよ、オクムラ選手がプロのレスラーとしてリングに立ち、どんな経験をし、何を感じてきたのかが語られていきます。修業時代を経て、実際にプロとして闘い始めたオクムラ選手の言葉は、また違った重みを持って響くはずです。この続きも、ぜひ楽しみにしていてください。