1935年、メキシコの大地に新たな風が吹いた。 それは、音楽と格闘技というふたつの舞台で、情熱が爆発した年だった。
黄金の旋律とともに始まった時代
その年、アグスティン・ララの名曲「Arráncame la vida(私の命を奪って)」が国中を席巻する。 “フラコ・デ・オロ(黄金の痩せ男)”と呼ばれたララは、すでに民衆の心を掴んでいたが、 この曲によって彼の名声は国境を越え、国際的な舞台へと羽ばたいていく。 彼の音楽は、ただの娯楽ではなかった。 それは、時代の情熱と哀愁を映し出す鏡だった。
外国人レスラーが支配するリング
一方、プロレスの世界では、メキシコ人レスラーたちがまだ芽を出し始めたばかり。 当時のリングは、外国人選手たちの独壇場だった。 日本からはマツラ・マツダ、オーストリアからはルイス・コドリック、 イタリアからはピエトローニ── 彼らは異国の技と風格で観客を魅了していた。 ちなみにピエトローニは、後にメキシコシティのナポレス地区に 有名なアイスクリーム店「シアンドニ」を開いたことでも知られている。
歴史を変えた、女性たちの登場
そして、1935年7月。 メキシコのプロレス史において、忘れがたい瞬間が訪れる。 旧アレナ・メヒコのリングに、初めて女性レスラーたちが登場したのだ。
ドイツのマイト・ステインとルイス・フランシス、 アメリカのテッド・マイヤーズ、 アイルランドのドット・アポロ── 世界各地から集まった彼女たちは、 その技と気迫で観客の度肝を抜いた。
そして、その中にひときわ輝く存在がいた。 メキシコ初の女子レスラー、ナタリア・バスケス。 彼女の登場は、単なるデビューではなかった。 それは、女性がリングに立つという“当たり前”を 未来に向けて切り拓く、革命の第一歩だった。
批判の中で生まれた希望
当時、女性が格闘技に挑むことは、 多くのメディアや保守的な層から厳しい批判を浴びた。 だが、彼女たちは怯まなかった。 むしろ、その逆風を力に変え、 リングの上で自らの存在を証明してみせた。
この瞬間から、女子ルチャリブレの歴史が静かに、しかし確かに動き出した。 それは、平等と尊厳を求める闘いの始まりでもあった。
Consejo Mundial de Lucha Libre(CMLL)──それは、情熱と栄光の物語。 そしてその物語は、今もなお続いている。

